【闘病記】17歳原因不明の大病に見えた先

希望002

私は高校3年生のときに原因不明の病気にかかりました。それはとても過酷な闘病で、通常の生活戻るまで2年間を要しました。その闘病したからこそ見えた価値観、人生観があります。

突然の急変

「ここは?!」

目が覚めて白い天井が見えた。一瞬どこにいるか分からなかったが、記憶をたどって思い出した。気を失っていたことに気づいた。

17歳、高校3年生の12月、ちょうど受験の1か月前のこと。

私は家で受験勉強をしていた。その時、

急に呼吸が苦しくなり、体が震え、その場で倒れてしまった。母親が気付き、

「大丈夫!??」と話しかけているようだったが、その声も遠くなっていった。そして、「救急車呼んで!お父さん!」と聞こえた声を最後に、記憶が途絶えた。

いま、目を覚まして気づいたのだが、たぶん病院だろう。

そう気づいて、体を動かそうとしたが、手も足も自由に動かないことに気づいた。何とか運んでもらって家に帰り、そこからは、食べ物すら喉をとおらず、病院に検査に行っても原因不明と話された。

病院は原因がある程度特定できないと入院できないシステムであることを初めて知った。私はどの科に行くかもわからないため、病院もどうしようもなく、結局自宅療養になった。しかし、一人で立つこともできず、食べ物は食道が動いていないのか飲み込むこともできないため、水だけの生活が始まった。

そして、TVをつけても、眼はノイズにしか見えていなく、音も綺麗に聞こえない。1998年の頃だった。

まだ、世の中でインターネットもあまり流行っていなく、携帯もようやくJ-phoneなどが出た時代。ググるという言葉すらないため、私は同じ症状のことは本で母親が調べたが一向に出てこない。

TVも見る事ができない、ラジオも聞こえない、水しか飲めない、起き上がれない、もちろん、受験もできない。また、親は共働きだったため、朝から夕方までは家に誰もいなく、何かあったら救急車を呼ぶ用意だけしていた。

そんな地獄が始まったのが高校3年生の12月だった。

受け入れられない

当たり前だが、私は、人生でこんな経験をしてきたこともなく全く受け入れられなかった。体重は2ヶ月で68キロから52キロになった。水だけで、イチゴをひとつ飲み込むことすら思うようにできなく、できたとしても、膨満感が激しく、気持ち悪い時間が3時間は続く地獄を味わう。

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」

ひたすら自問自答が続く日々。

思い返せば兆候はあった。

私は普通の高校に通い、部活を2年生までしていた。3年生からは受験勉強に切り替え、部活を辞めた。ところが、わたしは心の中でいつも葛藤をしていた。

「なぜ大学に行かなくてはいけないのか?」

「何のために勉強する必要があるのか?」

あの時は本気で分からず、分からないために勉強が苦痛で仕方なかった。くしくもこの10年後に社会人から28歳で大学を再受験するとは思いもしなかった。

ただ、しなくてはいけないと脅迫感が強かったため、誰にも言えず、うちに込めていた。そのため、葛藤をしながらも受験勉強を続けていた。

受験勉強を始めて3か月がたったころ、夏になった。普段何気ない事だと思うが、腕を蚊に刺された。痒いなと思い、かいてしまった。これが序章だった。

このあと、いつもいつも掻いてしまい、気が付くと左手どころか、背中、右手まで真っ赤になってしまった。私は夏なのに隠すために長袖を着る始末になってしまった。

また、勉強の合間の食もおかしかった。なぜか、無性にカツカレーが食べたくなり、1日5食、食べる時もあった。それ以外にも家の夕食やお昼を食べていたので、相当な過食になっていた。

このことも全て隠していた。何か良くない事が起きているにも関わらず、私自身は病気とは考えず、疲れているだけと受け入れなかった。

あの時の自分にいまだったら、「すぐに、辞めて。逃げろ!」と言いたい。

しかし、そんな判断がつかないのが高校生なのかもしれない。また、経験がないため受験をしないと仕事ができなくなるような脅迫感もあった。

今思えば本当に、馬鹿だと思う。こんなことをしなくても、色んな勉強の仕方や人生の楽しみ方はある。いまはネットもあるので、世界の情報が入ってくるし、リモートワークなど今までになかった働き方も増えている。

1998年当時の私には、見えている世界。小さな世界だけが知っている世界の為、ここを頑張らなければという妄想に取りつかれ、結果。倒れてしまった。

闘病の始まり

倒れたから2ヶ月がたった、病名もわからず、痩せていき、鏡も見たくなかった。もう「なんで?」ということを考える気力もなくなっていった。

周りの同年代がうらやましかった。大学生活にあこがれていたわけではないけど、新しい季節の始まりとともに高校を卒業する。わくわくするような新生活を過ごしているのではと考えると、本当にうらやましかった。

私は、この先の事を考えるとゾッとした。まず、家の半径100mも歩けない体。いつ発作に襲われるか分からない感覚。病名が分からないため、何をしたらよいのか分からない。

自分の存在意義とは?

世の中に自分が存在している意味があるのか、そもそも存在することに意味があるのか?

考える事しかできなくなったため、毎日このような事を考えていた。この先、水しか飲まず半年後も生きているのか?目の前が真っ暗だった。自分のことを言い聞かすために、半紙に”病気と共存”と書いて、壁に張った。毎日それで言い聞かせていた。

社会は厳しい

半年後位には、なんとか歩けるようになり、食べ物もおにぎり1個程度なら、1食で食べれる程度に回復した。結局何が原因かはこの時も分からない。脳の部分ではないかと今は思うが、当時は調べても分からなかった。

私は、少し動けるため、毎日近くの公園を散歩した。

昼間の公園は、子供とおかあさんがいたり、おじいちゃん、おばあちゃんがいたり、サラリーマンの方が新聞を読んでたりした。また、毎日水だけの生活をしていたからか、公園の緑の匂いが非常にわかるようになり、感覚が鋭敏になっていた。

「この社会に戻れるのだろうか?」

わたしは恐怖でしかなかった。体がボロボロになり、正常にまだ動かず、このままこの体で生きるしかないと決意はしていたものの、受験をするほどの元気もなく、かといってバリバリ働くほどの体力もなかった。

携帯電話を持っていても友達のアドレスは入っていなく、親くらいだった。

人は社会の外に出ると、孤独を感じるものだという事を初めて感じた。また、孤独というものは慣れるまで本当に怖かった。こんど、それに慣れると、社会に出るのがもっと怖くなっていた。

挫折から学ぶもの

私はアルバイトを挑戦することを決めた。本当にこのままだと、未来が見えなく、また、親にも申し訳なかった。少しでも自分の分くらい稼ごうと決めて、週に2回の古本屋さんのバイトを応募した。

面接は非常に怖かった。久しぶりに外の人と話したので、帰り際に吐くほど緊張した。ただ、いい人だったので、なんとか面接は通る事が出来た。

初バイトの日、私は最初の仕事は、古本屋で買い取った本を綺麗にしてまた売れるように袋に詰める仕事だった。今思えば、本当に簡単な仕事だが、私の体はやはりおかしかった。脳が信号を出したのか、どんどん息が苦しくなり、倒れそうになった。私は座り込んでしまった。店長さんに「大丈夫か?」と聞かれ、正直に現状を話し、そこでバイトを辞める事になった。本当に申し訳なったと今でも思っているし、店長さんには感謝をしています。

そんなこんなで色々の短期バイトを10回以上、やっては、体がもたず辞めてを繰り返した。本当に社会に戻れるか?何をやっているのか?

私はバイト先に謝る事を繰り返した。本当に何度も倒れては、応募し、また、倒れては応募した。この経験は今では役に立っている。本当に申し訳ないのは前提にあるが、倒れたらやめればいい。と。

昔の自分は倒れたりして辞めるのが「かっこ悪い」と上から見下ろしていた。

しかしこの時の経験が今では生きている。体調が悪い時は休む。むしろ休みながら上手く体調を管理した方が周りのみんなには迷惑をかけないし、そのことはかっこ悪いことではない。変にかっこつけて何もやらないより、少しでも前に倒れながらでもコツコツ進んでいる方が、よっぽどかっこいいと価値観に変わった。

価値観を変える事は大変だ。いままで、いろんな方が当たり前のようにこのような事を言ってきてくれた。しかし、狭い世界で済んでいる自分のくせに、頑なに変えようとせず、結果として後で気づくことを学んだ。

気づいたこと

あれから20年たった。いまは38歳で会社員として働いている。じつは31歳の時にも難病を経験するとはこの時は思ってもいない。

31歳難病体験はこちら

希望003【闘病記】難病サルコイドーシスが寛解するまで

しかし、あの時に全く前が見えなった時と比べれば今は、心も体も軽い。

あの頃、前も見えず、本当にコツコツ、自分の体と対話して、失敗して、挫折して、ときには逃げて、休んで、それを繰り返して、また前に進んでを繰り返しての今がある。

あの時に、変にふてくされて、挫折や失敗を恐れていたら、いまはどうなっているか考えるときがある。間違いなく、いまより、もっとつらい思いをしていただろう。挫折をするときはその瞬間は、本当につらいし、周りにも申し訳ないし、色々辛いと思う。しかし、振り返ってみて思い出せる辛かったことは意外と少ない。それは、その経験を経て次にうまくいったことで記憶が消されてるのかもしれない。

いま、病気で前が見えない方がもし読んでいたら、こう思って欲しい。

「きっと良くなる、あきらめないでください。また、社会復帰も相当大変ですから、いっぱい挫折と失敗ををしてください。その分だけ全ての面で良くなります。」

その後、絵本を出版した話はこちら↓

0001【体験談】33歳で絵本を全国出版するには?

おわりに

この文章に書けなかったエピソードも他にもたくさんあるので、随時アップしていこうと思います。読んで頂けて光栄です。

私は今は38歳で会社員をしています。あの頃の自分は会社員にすらなれないと思っていました。ましてや結婚も考えられんせんでした。ただ、いまは人並みの生活になりました。人生80年時代、まだまだとも考えられるようにもなりました。

あの頃は1日1日が勝負でした。明日倒れるかもしれないという恐怖が常にありました。いま、終わりに皆さんにお伝えしたいのは、

「明日が当たり前に来るとは思わないでください。」

私も倒れる前には、そんなことを考えた事もなかったです。しかし、2度の大病をして、いま、この瞬間を精一杯生きることの大切さを学びました。もちろん、明日も元気に生きていると思いますが、日ごろから感謝と敬意をもって、生きていくと思いました。また、やりたいことは我慢せずにどんどんトライして、失敗してもいいと思うようになりました。

価値観を変える事は大変なことです。大きな出来事がなければ変わらないかもしれません。しかし、常日頃から意識するだけでも見えてくる世界は違うと思います。いまでも、まだまだ、ですが、そんな柔軟に価値観を持った人に慣れるように生きていきたいです。また、少しでもこの文章を読んで元気になった人がいれば幸いです。ありがとうございます。感謝。